
戸塚 宏の"にんげん"教育学 A
儒教は"科学"T
"科学"の定義は「再現性」です。
科学者とは、時間・空間を超えて、再現可能な「法則」を創る人のことです。いつ、どこで、誰が行っても同じ結果が出なければ「理論」とは呼べないし、科学ではありません。
「子供には無限の可能性がある」「子供は限りなく自由である」「子供は大人と同じ利益を有する」「子供にも理性がある」「子供にも人格がある」「体罰は悪いに決まっている」等々のマスコミ論調を叫ぶ連中は、初めから科学を否定していると言えます。
古典と呼ばれるものの多くは科学です。科学であるがゆえに、時間・空間・人種を超え、今の我々にも理解できます。儒教に共鳴できるのも、それが科学だからなのです。
それとは逆に、科学の上にあると信じ続けられたものがあります。
例えば聖書です。信じる者にとっては古典ですが、信じない者には何の意味もありません。これはどうしても天動説になってしまいます。さらに、それを信じる勢力が強大な時には、その天動説の被害は外国にまで及びます。日本の学級崩壊など、まさにこの天動説の被害に他なりません。
現在の日本の人権思想の本は『世界人権宣言』です。だから、我々はまずこれを読む必要があります。
『君子は本(もと)を勉む。本(もと)立ちて道生ず』
読めば、「これは天動説だ」とすぐに気がつきます。
まず第一条、「人間は生まれながらにして自由であり、権利と尊厳について平等である。理性と良心を付与されており、互いに同胞の精神で行動しなければならない」、見事なまでの天動説、キリスト教思想です。
理性を創るのが教育
日本の精神の伝統はもっと科学的。昔から東洋では、自由・権利・尊厳・平等・理性・良心は全て「あるもの」ではなく、「創るもの」とされています。努力して行動し、創り上げるものです。その日本でキリスト教的天動説を運用すれば、必然的に学級崩壊を招きます。
なぜなら、教育とは「正しく、強く、安定した理性を創る」ことだからです。初めから理性があるなら、教育など必要ありません。
例えば「自由」。風が強く、波が荒く、身の毛もよだつ海で、ウインドサーフィンを「自由自在」に操れる者がいます。これは技術と体力を創ったからできることです。「権利・尊厳・平等・理性・良心」にしても然り。
日本の役人やインテリは、どうして『世界人権宣言』をすんなり受け入れてしまったのか。アメリカのいうことだから間違いないと思い、きちんと検討しなかったに違いありません。それが未だに続いている。
子供の世界に問題が生じると、政府は「まず、カウンセラーを増員し…」などとピントはずれなことを言います。これは天動説です。
子供を取り巻く環境を変えてみたところで、問題の主体である子供を変えなければ意味がありません。子供に理性を持たせることこそが、問題の根本的解決策なのです。
私は逮捕されてすぐ、心理学の勉強を始めました。
心理学とは「精神」を説く学問です。それではまず「精神」は…と心理学辞典を引いてみてびっくり。なんと「精神」の項がないのです。「精神」を語らない「精神」の学問、なぜそのようなことになったのか。
欧米人にとって精神とは神そのものです。つまり科学の上に立つ者。それを定義するような恐れ多いことができるはずもありません。
目指すは『文武両道』
儒教は科学です。
『まことに日に新たに日々に新たに、また日に新たなり』(大学)。
これは「全てが変化する」ということです。全て変化しなければ科学は有り得ません。科学とは「変化の法則」だからです。創造論は科学足り得ません。教育が科学でないというなら、学校も教師も存在し得ないのです。
「民を新たにする」ことが権力者の仕事です。新たにするとは進歩させることです。進歩したことを実感した時に生ずる快感が幸福なのですから、「民を新たにする」とは、「民を幸福にする」ことに通じます。神が人間に生まれながらにして理性を授けたのなら、人間は生まれた時から神に幸福を奪われていたことになります。さらに、欧米の心理学はロゴスを過大視したことで、感情と意思を軽視するという欠点も持っています。
日本流の『文武両道』にさえすれば教育崩壊など、すぐ収まってしまうのに…。